総合商社が激務だったのは昔の話?【今はほとんど毎日20時前に帰れます。】

こんにちは。 商社マンのTED山本です。

本日は、総合商社に籍を置いて39年。総合商社が激務だったのは昔の話、という事をお話しします。 

今回のブログ内容は以下の通りです。

  1. 総合商社が激務だったのは昔の話。
  2. 総合商社が激務だったのはリスクを取らず楽をしてビジネスをしていたから。
  3. 商社冬の時代を経て、自らリスクを取ってビジネスを行い、変わったビジネスモデル。社員の働き方も大きく変わった。
  4. 資源価格低迷後、各総合商社は新たな収益源を求め得意分野に邁進するも道半ば。
  5. まとめ

私は総合商社の栄枯盛衰を見てきました。自分でビジネスの仕組みを提案し、会社上層部にその案を売り込んで、これが受け入れられば、任せてくれる素晴らしい会社人生を過ごしました。

でも、結果が出せず、また提案した仕事ができない場合は、しっかりその責任は取らされました。

私のアップダウンの多い商社マン人生に基づいてお話しします。

 

総合商社が激務だったのは昔の話。それはリスクを取った仕事をする様になったからです。

 

月の残業時間が200時間超えも珍しくなかった20代の頃

私が20代だった頃、忙しい月には、200時間以上の残業をしていました。

土日も会社に出て、平日も、週のうち殆ど毎日終電で帰り、下手をすると会社に泊まり込む、そんな毎日でした。

月の残業時間が50時間を超えると上司が人事から目玉を食うので、裏出勤簿というのをつけて、毎月の残業時間を49時間でハンで押したように申告してました。

年末になり上司に、「これだけ未申告の残業が溜まってますが、いつ残業代請求できますか?」と聞くと、「ああ、それはチャラだな」と言われてました。完全なブラック企業でした。

 

今のオフィスで20時を過ぎて事務所に残っているのは一握りだけ。

今、私のオフィスで、夜の20時を超えて残っているのは、ほんの少し、限られた人間だけです。(コロナで在宅勤務に入る前のことです。)

遅くまで残っている社員は、期限のある仕事を抱えて、締め切りが近いとか、入札の案件で札入れが間近とか、ちゃんとした理由があります。

時間的に総合商社が激務だったのは、昔の話なのです。

 

総合商社が激務だったのはリスクを取らず楽をしてビジネスをしていたから。

リスクを取らずに儲けようとすると、激務になってしまう

20代の頃私は、海外のエネルギー関係資源会社(サプライヤー)の代理店をやってました。

商品を売るにあたって、その資源掘削の為リスクを取るわけでもなく、場合によっては、その鉱山に投資をするわけでもなく、海外の資源を日本に持ってきてお客に売りつなぐ、という仕事でした。

お客様に、市況や、他の鉱山の情報や、世界中のクライアントの動向などを調査して報告することで、世界の潮流の知識をお客様にお知らせして、そして自社の物資を購入していただく、そんな仕事です。

海外のサプライヤーの代理店として、販売金額の○○%の口銭という手数料をいただくと共に、日本のお客様に、商品のDeliveryのアレンジや、市況動向のお知らせや、お客様の海外の視察の際の、フルアテンド(航空機や移動のアレンジ、出張先での打ち合わせ時のフル通訳に議事録の作成、週末の観光のアレンジと同行や会食のアレンジ)などを行って、サービス料を頂いていました。

お客様も、我々にわがまま放題を言っていて、夜遅くに電話がかかってきて、明日の朝まで、上司に説明するための資料を揃えて出してくれ、なんてことも当たり前の様にやっていました。

市況が上がり、品薄になれば、商品の取り合いになって、海外サプライヤーから、なかなか日本のお客さんへ良いオファーが出来ない。

一方で、市況が落ち込むと、日本のお客様へあれも売れ、これも売れと海外のサプライヤーはプレッシャーをかけてきます..

私は市況が上がっては駆けずり回り、市況が下がっては右往左往して、息つく暇がありませんでした。

海外のサプライヤーの女性マネージャーは定時に帰宅するし、長期のホリディは取るし、高額のサラリーを貰って結構優雅な暮らしをしていました。

社畜の様に働いていた私とは全く違います。

何でこんなに楽をしている、こんな奴らに顎で使われないといけないのか?といつも思っていました。

何故だと思いますか?

それは、海外サプライヤーはリスクを取ってビジネスをしているのに、私たち総合商社は、リスクを取らず、儲けようとしていたからです。

そんな時代が、終わりを告げました。

 

商社冬の時代を経て、自らリスクを取る様になって変わった総合商社のビジネスモデル。社員の働き方も大きく変わった。

商社冬の時代 お客が商社のサービスにお金を払ってくれなくなりました。

日本の総合商社の大御所である三菱商事は、坂本龍馬の創設した海援隊が起源といわれています。

明治維新間もなく西郷隆盛が起こした西南の役で、官軍の為の物資・兵站輸送で財をなした三井物産は、日露戦争のバルチック艦隊の来訪をその通信網で知らせたといわれています。

日本の総合商社は、世界に広げたネットワークと、海運業者との連携で、仲介貿易中心に大きくなってきました。

そんなビジネスモデルが、1980年代から1990年代に崩れていきました

通信の発達で情報はすぐに手に入るし、語学力も、英語なら、メーカーにも凄い人がいる。

海外で現地生産を始めたメーカーの方が、現地の事情に詳しくなる。

情報と物流、世界に張り巡らせたネットワークで華麗に稼ぐ時代が終わりを告げました。

また、海外の会社の代理店で、販売口銭(手数料)を稼ぐ仕事は、採算性が非常に悪くなりました。

お客が商社のサービスに魅力を感じなくなった一方で、商社マンのコストは非常に高いので、採算が取れなくなったのです

 

投資をして自らリスクを取り大きく業態を変え蘇った総合商社

ジリ貧の旧態依然の仲介貿易中心のビジネスから、事業投資やプラント事業等、自らリスクを取るビジネスモデルに、総合商社の先人たちは、大きく舵を切ります

総合商社の連結純利益は、2004年に三菱商事が1000億円越えをしたのに続き、2007年までに、三井物産、住友商事、伊藤忠商事、丸紅がこれに続きました。

私は資源エネルギービジネスに身を置いています。

私の勤務する会社でも、海外の鉄鉱石、石油、石炭、非鉄金属(銅、亜鉛、ニッケル、アルミ)などの鉱山に投資する様になりました。

単に事業に資金を注ぎ込むだけではなく、鉱山の専門家を雇い、社内には鉱山投資や操業のエキスパートを育成してきました。

火力発電所プラントの建設ビジネスでは、かつては、重電大手の、三菱重工業や東芝や日立製作所などにくっついて、一緒に海外で発電所建設を受注して、メーカーから口銭をいただいていました。

それが、社内にプラント受注・建設のエンジニアを抱え込み、発電機、ボイラー、変圧設備などのパーツを、それぞれ競争力のあるメーカーに発注し、自ら受注し建設し、また、電力会社を協力業者として参加してもらって、スタートアップして海外のお客様に納品する、ターンキープロジェクトも手掛ける様になりました。

1980年代、大手総合商社各社の連結純利益は、わずか数百億円であったのが、現在は数千億円と、20倍以上に膨らんでいます

その結果、我々個々の商社マンのビジネスのスタイルも、仲介貿易で、お客様やサプライヤーに奉仕して、薄い口銭をいただき儲けるスタイルから、ビジネスを自ら立案して企画し、その中心企業として、元請けとして、リスクを取って、大きく儲ける、というスタイルに変わりました。

日々の業務は、お客様に振り回されて、テニスのボールを打ち合う様に、リアクションを中心に行う業務スタイルから、求められているビジネスを見出し、立案し、内在するリスクを評価し、それを最小化して、儲けを最大化する、という業務に変わりました。自分たちが中心で、自らビジネスをクリエートする形になったのです。

忙しい時は忙しいが、その忙しさは、自分たちでマネージできる、プロフェッショナルなビジネススタイルに変わってきました

 

鉱山投資によりビジネススタイルがガラッと変わり、私の働き方も大きく変わりました。

私の担当していた、海外資源会社の代理店ビジネスも、日本のお客様が直接取引を志向したり、我々への手数料(バイヤーズエージェント料と言います)を大幅削減したり、払ってくれなくなりました。

行く先がジリ貧なのは自明で、坐して死を待つのはどうしても嫌だったので、私は海外の鉱山への投資を企画しました。

有望な鉱山・操業間近だが、資金や日本への販路を持っている会社の投資を、鉱山会社は求めています。

その中で、品質の良いところ、海外投資家の利益の回収の為の法律が整備されている国、道路等の輸送インフラ、電力のインフラ整備計画の進んでいる案件をリストアップするところから、着手しました。

幾つかの鉱山会社の中から、ベストの所を選定し、投資に関する交渉を行った末、投資にこぎ着けました。

相手との交渉には、数々のドラマがあったので、これはまた別の機会に披露させて戴きます。

代理店商売をやりつつ、追加でこれらの投資案件の物色、現地調査、その評価と社内の投資委員会への申請などを、私の部下と共に行いました。

当時は、人の倍の仕事をしていましたから、激務の毎日でした。

その結果、私たちのビジネスのスタイルはガラッと変わりました。

お客様は、我々を仲介業者としてではなく、サプライヤーとして対等な立場で接してくれるようになりました。

無駄な接待や、海外視察の手取り足取りのサービス業務は皆無になりました。

自分たちで売り捌く自分自身の玉(鉄鉱石など鉱石のことを、我々は「玉」と呼びます)を持って、販売をすることができます。

自分たち自身がサプライヤーになったからです。

投資をするための手間は半端では無いし、リスクもあるが、儲けのレベルも、かつてのものの、数十倍に変わりました。

リスクを取ったビジネスを行うことで、お客に振り回される激務は影を潜め、ビジネス上のリスクを判断し賢くリスクをマネージして自分たちの裁量で大きく儲ける、そんなプロフェッショナルな仕事に変わったのです。

 

資源価格低迷後、各総合商社は新たな収益源を求めそれぞれの得意分野のビジネスに邁進するも道半ば。

そうやって先人たちが切り開いた、大型投資をしてリスクを取り、大きく儲けるビジネススタイルに綻びが出てきました

資源価格の高騰と低迷です。

まず、中国企業の資源爆買いに伴い、世界の資源が高騰しました。2000年代のことです。

世界の資源系の会社が最高益を出す中、総合商社も資源高の恩恵に預かり、好業績を謳歌しました。

商社では資源のビジネスで儲けが出たのは当然ですが、自分たちが持っている鉱山会社の価値が高騰した為に、見かけ上の利益も出たのです。(時価で評価した資源会社の資産価値が上がった為。)

その後2008年に起こったリーマンショック、その後シェールオイルの開発で原油価格の緩みに端を発し、2015年〜16年に資源バブルがはじけたことから、資源価格市場が低迷しました。

トレード上のロスもありますが、自分たちの持つ鉱山の資産の価値が大きく下がり、この為に見かけ上のロスが出ました。(時価で評価した資産価値が下がった為。)

資源価格の低迷のため、大手総合商社の決算は悲惨なものになり、格付けが下がり、株価が低迷しました。

リスクを取って資源等の投資をすることで、大きな収益を得る、というビジネスモデルが、崩壊しつつあります。

総合商社の経営陣は、資源価格のアップダウンで、自社の見かけ上の利益がアップダンウンし、株価が低迷し、また自社の投資評価が左右されることにうんざりして、資源ビジネスから、他のビジネスへ舵を切り始めました。

その後の各社の取り組みはまちまちで、各社の強みを生かしたビジネスへのシフトです。

ケーブルテレビ事業、エネルギーのリーテイル事業、農業、食品、病院ビジネスへのシフトなど、各社新たな収益源を模索し、道半ばの感があります。

我々の先輩方は、ピンチになり追い詰められると、新たな発想と、困難への猛烈なアタックで道を切り開いてきました。

世界的なコロナウィルスの蔓延で、各社ビジネスにダメージを受けていますが、

必ずやこの苦境を乗り越えて、新たな飛躍をすると、私は信じています。

 

まとめ

今回のブログのまとめは以下のとおりです。

  1. 総合商社が激務だったのは昔の話。
  2. 総合商社が激務だったのはリスクを取らず楽をしてビジネスをしていたから。
  3. 商社冬の時代を経て変わった業態。リスクを取って大きく儲ける様になりました。社員の働き方も大きく変わりました。
  4. 資源価格低迷後、各総合商社は新たな収益源を求め得意分野に邁進するも道半ば。しかし必ずや、新たな収益源を見つけるでしょう。

 

某総合商社に勤務して39年、色々な経験をしてきました。成功も失敗も。

海外駐在の経験もありますから、ビジネス関係でご質問のある方は下に登録して、コンタクトください。

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長く勤める間、私はアップダウンの大きな経験をしてきました。

好調の時は、新たなプロジェクトが話題になり、テレビの番組で取り上げられ、インタビューされる事もありました。

一方で、駐在中の不手際の為上層部の逆鱗に触れて、窓際族になり、どん底を経験したこともありました。

そんな折出会った瞑想とヨーガの力で、私は何も無かったスクラッチの状態から、数百億円のビジネスを作り出すことができ、復活する事が出来ました。

この驚異の瞑想とヨーガの大きな力にご興味がある方は、以下のブログ記事をお読みください。

https://ted-yamamoto.com/meditation-summary/

 

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